饒舌になり過ぎて。

先日、カミさんと一緒の園で働いている保育士さんが数人が我が家に来られて、前から計画していたというフォンデュパーティーの準備をみなさんでなさっていた。

 

何もお手伝いをしていないのに、「 準備できたよー!! 」と優しい声を掛けて頂き、(え?主役??)有り難い事に、自分も一緒にフォンデュパーテーに混ぜて頂いた。

(というか、状況的に混ぜなければ仕方がないと思う。いわば不可抗力的な、、、。)

 

チーズフォンデュチョコレートフォンデュ

まともに?家でしたのは初めてだけど、どちらもとても美味しかった!!

何よりも好きな方に素材を絡めて食べるという、ユアセルフの方式が楽しかった。

手巻き寿司パーティーもそうだけど、こういうのは楽しくていいねー。

 

 

あまりの美味しさと楽しさにテンションが上がったご主人は、乗り物でいらっしゃった人を横目にビールを飲みはじめ、いつもより多くの缶を空にして更にご機嫌になられたのか、ご主人はかなり饒舌におなりになったご様子。

 

 

マシンガンが止まらない。

喋りながら気づいたが、そういえば飲んだらよく喋る質だった。

 

 

今回のテーマは(笑)、   ~ 子供の個性について ~

 

返事をする時に、大きな声で返事をする子供と、小さな声で返事をする子供がいる。

声が小さいからといって元気がない訳じゃないし、話す時の声の大きさは人それぞれ。子供 = 声が大きい 声が小さい=元気がない は、勝手な大人の勝手な妄想。

離れた所から大きな声を出して先生を呼ぶ子供と、すぐ隣まで来て話しかけてくる子供。一人で遊ぶのが得意な子供と、集団行動が得意な子供。みんな建物の中に居るのに

一人だけ外で遊ぶ子供。多数の子供たちとは違う遊び方をする子供。

 

こう言えば分かり易いかな。 「 同じ物でも人によって見方が違う。」

みんなそれぞれ個性がある。

色々な性格の人間がいる様に、色々な個性の人間がいてもいいじゃないか。

どこにいってももちろん決まり事はあるけど、強制しなくてもいい様な所も強制して、単一化しようとする時をよく見かける。

その方がコントロールするのに楽だから?

 

 

自閉症スペクトラムADHDと診断された子供が居るとする。

日本ではそれを病気という風に解釈して、幼児期から要注意のマークを付けられて

ある意味の「変わった子」として、小学校中学校とその情報は引き継がれて上がっていく。ずっとそのマークはついたまま。教育現場の現状はよく知らないけど、社会的風習として多数の人たちと比べて違う子は弾かれる事が多い様に思う。

それは学校でも社会でも。

変わった子と個性的な子のニュアンスは紙一重だと思う。

 

もちろん協調性も大事だし、周りの人に迷惑をかけちゃいけないと思う。

だけど目線がそこばかりに集中し過ぎて、少しでもはみ出ると糾弾され、端に追いやられる。弾かれたりする。

 

人と違っちゃダメなの? 

なんで?

個性の幅を認めない。個性を個性として認めてもらえない。

個性とはなんぞや?

 

目の前にいる子供が少し変わった子供だったとしても、(大人でも一緒)

それをその子の持つ個性として理解する。

それの個性がマイナスに働いていたなら周りのみんなと一緒に支えて接していくという姿勢が大事。小さい頃からそうやって教育していくと、社会全体が個々を個性として理解し合えると思うし、みんなと違う事をすると矯正させられるし弾かれる事を教えられると、この国の様な社会全体がそういう社会になると思う。

 

という様な話をしていたと思う。

 

ずっと話しを聞いていたカミさんが 「なにこれ?なんかのセミナー??」って。

 

思い出しても恥ずかしいけど、家に居るからついでに参加させて頂いた自分が終始ずっと喋っていた気がする(笑)

先生たち、本当に申し訳ない!

 

 

昨日所属している会の例会に出席した。受付を済ませると、

「金田さん! 次の例会でスピーチをお願いします!」と幹事の方に言われた。

「えええぇーーーーーーッッ!!?」

「ぼぼぼぼぼ、ぼぼ、僕ですかーーっ??」

 

 

ご機嫌になって饒舌になった時とシラフで壇上で話すのは違うみたい。