きのうの続きを少しだけ。

決して草が悪いのではない。

 

 

むしろ後から来た人間が植物という先住者を排除しようとしている。

 

植物は平和主義?だ。

 

植物の中での生存競争はあるが、他者を強制排除する手段は持たない

んじゃないのかな。

 

 

固くて栄養分の少ない痩せたには土壌に最初に生える草は、

だいたい決まっている。

自分が根を張る事により固く締まった土をほぐす。

自分は次に生えてくる植物の養分となる。

 

 

土がほぐれると、次はその土壌に合った植物が生えてくる。

 

土質が変わったら同じ草は生えてこない。

 

みんなそれぞれの役割がある。

 

 

駆除が厄介なツル性の植物は、巻き付くものが無ければ自分の役割が

終わったと思うらしい。

 

 

造園技師でもあり、NPO法人杜の会を設立された矢野智徳さん曰く、

ツルは切らずに解いて、例えばホースの様に巻いて束にして置いて

やると、数日で枯れ始めるらしい。

 

自分の役目が終わったのだと思って自分で命を終えるのだそう。

 

 

土質が変わったのにまた同じ草が生えてくる事はない。

 

 

雑草という名前の草はない。

 

みんなそれぞれ意味があって生きている。

 

 

 

一日以上草刈りをしていたら、

同じ敷地の中にも本当に色々な種類の草が生えていて。

立性匍匐性のもの、地下茎で広がっていく者、強靭な根を張る者。

生え方やその形根が様々で多様。その多様性がなければ生き残れない

程生存競争が過酷のだと感じる。同じ生き物として、相手が小さな草

であっても生き物としての大先輩だから学ぶべき所はたくさんあるし、

彼ら彼女らにリスペクトしなきゃならない所もいっぱいある。

そう考えると仕事だからって彼ら彼女らの命を摘んでいるのが何だか

申し訳なくなって。だからって仕事もせずにお客さんのお庭でウジウジ

とイジていた訳でも、逃げ道を残して適当に除草をしたって訳でもない

んだけど。どんな職業でも、相手をよく観察してよく知るっていう事は

重要。仕事だからね。

 

 

 

 

 

草との戦い。

一昨日と今日と、去年から伺わせて頂いている宇治市内のお客さんの

所へ剪定のお仕事。

 

 

お庭というか、植わっている植栽の手入れと掃除だけだと、大体

1日くらいで終わる。

だけどこのお宅は敷地がとても広い。

 

特に使われていないとても広い敷地は土。

雑草の勢いに手に負えなくて困ってるとおっしゃっていた。

今年から除草もさせて頂く事になった。

 

有り難い。

 

 

 

特に使われていないみたいだけど、管理が草の生育に追い

越されているので、笹とツル性の雑草の勢いが恐ろしい程強い。

 

 

 

戦い方としては、

 

時間は掛かるけど、草払い機での草刈りと除草剤とを効果的に

使って、笹とツル性植物の勢いを徐々に弱らせていく。

 

 

出てきたものをできるだけ短いサイクルで刈り取って葉を奪い、

草たちが光合成をして養分を作る隙を作らせないのと、

光合成で得た養分を根に蓄えさせない。

並行して、除草剤を使って根にもダメージを与え続ける。

1回だけではとても状況は変わらないので、何度も続けて草の

勢いを弱らす。地味だがとりあえずはこれしかない。

 

続けることが何より大事。

 

次は8月、その次は10月。

今年は一応3回除草作業をさせて頂こうと考えている。

 

 

草が大人しくなって、今までの景色が変わってきたら

今度はその場所を使って何かをしたくなると思う。

 

キレイになったらきっと心がワクワクしてくると思う。

 

そう思って頂ける様にがんばってキレイにしよう。

 

 

草との闘いは地味なのだ。

 

 

 

 

みんなが潰れていく。

今日も仕事はお休み。

 

 

 

毎年この時期には家族でキャンプにいっていて、

今年も3泊4日くらいの日程でキャンプに行く予定を立てていた。

しかも今年は高原キャンプ!!

場所が良かったら一カ所に連泊するのか、それとも移動するのか、

などを考えるのも楽しかった。

多くの人がそうだった様に、我が家もこの連休を楽しみにしていた。

 

 

本当にギリギリの直前まで、行くかどうかを悩んだ。

世の中的には「自粛するのが当たり前」かも知れないけど自分の中

では決してそうではなく、連休直前の、行く直前まで悩んだ。

 

 

キャンプなんて生きていればいつでもいける。

だけど一年後自分が生きている保証なんて誰にもない。

 

 

 

評論家になるつもりはないけど、

 

お店の営業も自粛。個人の行動も自粛。なんでも自粛。自粛要請。

現行の法律では命令というのができないのかも知れないけど、

 

 

言い方がずっこい。

 

自粛といっても主観は人によって違う。 

自分で自分を律っして下さいと言いながら半ば強制。

促されている事と違う行動をすれば批判され晒される。

暗に従えって事なのか。

 

ならばハッキリ言うべきだ。

分かりにくい。

 

 

日本語のこういう曖昧なニュアンスは大っ嫌い。

 

 

 

体調不良で不安になって、病院にいってもpcr検査を受けさせて

貰えないといった話を周りでよく聞く。医療崩壊を防ぐ為には仕方ない

みたいだけど、守りたいのは「目の前にある命」ではなく、「医療」

という形じゃないのだろうかと感じてしまう。

 

 

 

 

何が言いたいかというと、 政府の対応や行動力に対しての不信感。

 

 

 

 

緊急事態宣言は出すが自粛要請は各都道府県に委ねたり、

給付金にしても、枠組みだけ決めてとりあえず給付すればいい。

後は年末調整で帳尻を合わせればいい話である。

それが毎年ある年末調整なんじゃないのか。

企業に対するコロナ関連の助成金、給付金もそうである。

いつもだけど、対応が遅すぎる。

封鎖も検査も給付や助成も、スピードを持ってやって欲しい。

必要な時に助けなければ、手遅れになってしまうと意味がない。

 

 

 

積極的に検査をして感染者を探す訳でもないのに

自粛という都合のいい言葉を使って国民にジリ貧を強いている。

ただ待たすだけで国は何もしてくれない。

 

自粛解除の出口が見えないからどこまで我慢すればいのか分からない。

確かなことが何も誰にも分からないからみんなが不安。

買い占めが起きるのはそういう事だろう。

せめてある程度の着地点を教えて欲しい。

 

何もしないでこの状況が劇的に好転する要因があるのだろうか。

 

 

 

大阪府の吉村知事の言うように、自粛しろと言っている人たちは

この状態が何カ月続いたとしても自分の貰う給料は減らない。

だからそんな悠長な事が言えるのだ。

 

 

 

 

本当にみんなが潰れていってしまう。

 

 

何を頼んでも美味しい大好きな中華料理屋さんも。

ずっと昔から通っている定食屋さんも。

マスター一人だけで回しているあのお店も。

カミさんと付き合っていた頃からあるタコスの美味しいあのお店も。

知り合いの方が経営するお店も会社も。

お客さんの会社も。

 

  

 

 

国は本当にこの状況を分かってくれているのだろうか。

幾らでできる??

カミさんが連休明けまでの間在宅での仕事らしいのと、

世の中がこんな感じなので仕事も頑張り過ぎずにペースを落として、

今年の連休はゆっくりまったり過ごす事にした。

 

 

自営業なのでまぁ不定休なので、昨日も明日も少し仕事があるけれど、

一応約2週間のお休み。

 

 

少しの間カミさんが在宅勤務なので、娘も一緒に家に居る。

こんなに娘と遊べるいい機会は中々ない。

それに季節も天気もいい。

となれば、、、休むしかない!(笑)

 

 

娘の毎日はとても忙しい。

自分が起きた5秒後だろうとお腹が空いていようと、

したいと思った事、興味が向いた事は、片っ端から手を出している。

そのポテンシャルが一日中続いている。

 

彼女に適当という言葉はない。

常に全力で向き合っている。

 

素晴らしい行動力。

 

 

 

先日、庭木一本だけ切って欲しいと伺ったお客さんが、

「一度〇〇造園という所に来てもらったけど20万もしてねー」

「その代わりめちゃくちゃ綺麗だったけど。」

「金田さんならこの庭幾らでできます??」

とおっしゃった。

 

 

剪定というのは、その方法によって仕上がりや金額が大きく違ってくる。

 

 

例えば。

機械を使って刈り込むのか、

鋏で刈り込むのか、

鋏で透かすのか、

できるだけ小さくするのか、今のままを維持するのか、

草は抜くのか、機械で刈るのか、何もしないのか。

 

もちろん機械を使うと早くて安い。

機械はその為に生まれたのだ。当たり前である。

だが、剪定に機械を使うメリットがあれば当然デメリットもある。

 

 

大事なのはお客さんが何を求めているか、である。

それによって金額も仕上がりの見た目も全然変わってくる。

はっきり言えば、お客さんのご予算次第、という事になる。

 

例えば、松・竹・梅・と、コースを設けてお客さんご自身に選んで

頂くっていう方がお客さんにとって分かり易くていいと自分は思う。

 

そうすれば単純に高いとか安いとかではなく、選んで頂いたコース

相応の仕上がりを体験して頂ける事になるだろう。

 

 

 

人の所はよく分からないけど、自分はそうさせて頂いている。

 

ベリークィックリー。

 

昨日は植栽の下見や買い付けに庭園資材屋さんにお買い物。

 

あと、人の侵入防止の為の柵を作らせてもらうお仕事があるので、

その材料も探しに回ったり。ほぼ移動と打ち合わせの一日。

今回柵を作らせて頂く場所にはアルミやフェンスなどが雰囲気に

そぐわないので、木杭や木材を使って柵を作ろうと思う。

ここの柵は目立つ必要はない。むしろ目立ってしまうと逆に不自然

なので、周りの風景に溶け込むような柵を作らせてもらうつもり。

かといって、 植木屋さん=竹垣 ではない。

 

 

夕方、家に着いてすにぐチラシを見たとお電話を頂いた。

昼間に少し時間があったので、チラシを配らせて頂いたのだ。

配ったそのすぐ後にお電話いただくのは初めてかも。

 

「一本からでも切ってくれるの??」

 

宇治市内なので家からはすぐなのだ。

「今から見積りに伺わせて頂きます!」

 

大きなカイズカの枝が電話線に当たっているから切って欲しい、と。

枝下ろしになるかな。

樹高が高いので幹を切って樹高を下げなければ解決できない旨をお伝え

するとお客さんも「仕方がないねー」 と了承して下さった。

本当はお庭全部を手入れさせて欲しいけど、今回はこういうお仕事。

 

 

ベリークィックリー。

近いっていう事はこういう事なのだ。

 

 

 

 

宇治市内にある保育園の植栽の年間管理をさせて頂く事が決まった。

 

園内には色々な木がたくさん植わっている。

園長先生が花や実を付ける木が好きとの事で、桜やビワ、柿が数本。

山茶花、梅、ザクロまである。楽しそう。

 

有り難い。

 

 

 

 

 

 

腰の低さ。

お久しぶりでございます。

 

 

はや一週間!?

ブログをサボっていた訳ではなく、、、事務仕事が混んでくる

キャパシティーがすぐに一杯になって、ブログを書く余裕が

なくなる訳でございます。

 

 

その間にも聞きたくないコロナニュースは続々と

 

 

 

かなり大きくなったシンボルツリー(シマトネリコ)の剪定と、

土間のスリットに植えてあるタマリュウが部分的に痛んだり

弱ったりしている箇所の植え替えと、植木鉢に植わっている

オリーブの植え替えをさせて頂いた。

 

 

テキパキ動くと作業自体はおそらく3時間程で終わったと思う

が、ご主人とお話をしているとご主人の話が面白過ぎて

時間が経つのを忘れて話に聞き入るのに夢中になってしまう。

 

 

 

お昼にご飯を出して頂いた。

 

その時もご飯を頂きながらずっとご主人とお話に聞き入って

いた。話が面白すぎてずっと聞いていられる。

 

そして何より、知識の幅が広い。そして深い。

 

 

ご主人が役員を務めてらっしゃる会社は誰もが知ってる世界的

大企業。話を聞けば実質トップの様な感じ。

なのに超腰が低い!

自分の様な超零細自営業の人間にも「社長!」とおっしゃる。

 

 

いやいや、、、何かおかしくないですか?

 

 

自分の知る限り、すごい立場の人って驚くほど腰が低い人が

多い様に思う。

 

終始自分より腰が低かった気がする、、、。

ビッグになるにはもっと腰と頭の低さに気を付けないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都という町。

植栽をさせて頂くお客さんとの打ち合わせの為、金閣寺の前を走った。

 

全くガラガラで本当に人が歩いていないし、金閣寺前のバス停にはいつも長蛇の列ができていたのに、そのバス停は無人だった。

 

 

もうどこにも人が居ない。

 

 

京都市内はとても狭い。

その狭い街中で、ここまで観光客の方が居ない京都は見た事がない。

なのに人の極めて少ない光景にあまり違和感がない。

 

 

何故なんだろう??

 

 

 

考えてみると、

鉄道博物館京都水族館などを除くと、京都には派手な観光名所と

いうものはない様に思う。

 

 

 

先に書いた金閣寺等持院、すぐ近くにある室町時代に作られた石庭

のある竜安寺。さらに西に行けば御室仁和寺、少し下がれば妙心寺

さらに進めば嵯峨嵐山渡月橋。梅の有名な平野神社。そこより少し

下がればかの有名な北野天満宮。そのまま真東に進むと御祭神が安倍

晴明で知られる晴明神社。蹴鞠が行われる白峯神社。京都でいうセン

トラルパークにあたる京都御苑京都御所。その真北にある相国寺

そのまま山裾まで東に進むと銀閣寺にあたる。鬼門の方角を見上げると

一際大きい山がある。比叡山である。その山内に延暦寺がある。

 

 

挙げればまだまだ書ききれない程の社寺仏閣がある。

 

 

そう、京都は社寺仏閣の多いまちなのだ。

観光名所とは少し違うと思う。

 

 

神様と仏様。

神道と仏教の混在するこの国では何も珍しい事はないし、京都でなくてもどの地域にも神社とお寺は存在する。

信仰心の強いこの国では、社寺仏閣は当たり前に存在する。

 

 

 

地元の人が日課として参拝したりお願いを事をしたり、感謝をしたり。

ジョギングや散歩やウォーキングのコースになっていたりする。

 

 

社寺仏閣とは本来そういう場所なのだ。

 

 

人々の生活に深く浸透していて、観光名所として賑わったり

大挙して人が押し寄せてくる様な場所ではないのだ、と感じた。

 

人が居なくても賑わっていなくても違和感がない、むしろ自然に見える

のは、こういう事だからなのかなーと思った。